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【読書】『我等なぜキリスト教徒となりし乎』を読みました

久しぶりに本を読みました。

今年に入ってから死に関する重いテーマの本を何冊か読んだ後、なんだか本が読めなくなってしまって、ずっと本から遠ざかっていました。

もともと読書の趣味や習慣がある人間ではないし、本から遠ざかるのが今さらめずらしいわけではないのですけど。

ともかく本よりも、テレビや映画などの映像をぼおーっと眺めている方が、脳に負荷がかからないので楽だったのです。

ただの怠惰というか、ちょっと疲れているというか、これが通常運転なのかもしれません。

 

先日、ふと気が向いて図書館の本をネットで検索してみました。

相変わらず「死」の問題が頭をよぎらないでもないのですが、そこまで直截的なものには今は耐えられそうにないような気がして、さすがに予約かごに入れる気にはならず。

そこで、もうちょっとマイルドな、そして今のわたしに必要な本は何か、と考えてみると、どうも心は「信仰」のことについて欲しているようで、自ずと「キリスト教」を検索ワードにしていたのでした。

 

その検索で目についたのが、今回の本『我等なぜキリスト教徒となりし乎』です。

 

内村鑑三の著に『余はいかにしてキリスト教徒となりし乎』という本がありますが、それと同じ類のものでしょうか。

検索結果には、「著者:安岡章太郎、他」とあって、複数名によるキリスト教徒となった証詞(あかし)集か何かなのかと思いました。

さっそく予約して届いた本を受け取ってみると、著者は安岡章太郎と井上洋治神父による共著であることを知りました。

 

ざっくりとした目次は。

  1. 我等なぜキリスト教徒となりし乎
    闇の中にあって遠くに見える希望の光
  2. 我等はキリストをどう理解したか
    イエスの愛は母親の愛に似ている
  3. 日本人にキリスト教がどう伝わってきたか
    宗教戦争は支配と被支配の関係を隠している
  4. 遠藤周作よ いま何処
    日本人に合ったキリスト教
  5. 我等なぜいま宗教を問うのか
    人が神になってはいけない

 

上記のような章立ての中で、安岡さんと井上神父がそれぞれに語る形式になっています。

 

発行は1999年1月。20年前の本です。

99年と言えば、ノストラダムスの大予言などという流言飛語によれば世が滅びるはずの年でしたか。

95年には阪神淡路大震災、そしてオウム真理教による地下鉄サリン事件も続きました。

当時を振り返ると、世紀末感いっぱいだったような気がします。

 

本の内容は、お二人の入信のきっかけなどから始まり、キリスト理解や、歴史、日本人とキリスト教、宗教についてなどを語っていますが、各所で96年に亡くなった遠藤周作について触れられ、一種の追悼文のようでもありました。

安岡さんのまえがきによれば、安岡さんと井上神父と、それに「私たちの後ろに遠藤周作もいて、この三者で鼎談したのがこの本」とのことです。

 

青年期に死に取りつかれて苦悩した井上神父が見出したキリスト教の道。

遠藤周作に影響されてキリスト教に導かれた安岡さん。

遠藤周作『沈黙』、『深い河(ディープ・リバー)』に対する評価。

遠藤周作という人。

カトリックの神理解、イエス理解、信仰理解について。

遠藤周作の最期について。

 

などなど、について思いをめぐらせた読書でした。

 

安岡さん、井上神父、それに遠藤周作も、カトリックの人です。

わたしはプロテスタントですが、語られているキリスト教信仰の理解について特に違和感は感じませんでした。

個人的にはカトリックに憧れを持っている方なので、カトリックがうらやましい、という気持ちもなきにしもあらず。

特に、井上神父の言葉にはカトリックの「寛容」(というか、井上神父のカトリック理解と他者に対する寛容)が現れているように感じました。

結構ガチガチの福音派で受洗し、その後のなりゆきでリベラルに流れ着いてしまって若干の違和感を持っているわたしには、カトリックの他者への寛容とぶれない信仰がまぶしく映ります。

あ、プロテスタントが不寛容で信仰がぶれてるといっているわけではありませんよ。

キリスト教の歴史を考えると、やはりカトリックがキリスト教の総本山であるような気がするというだけで。

自分はプロテスタントからキリスト教に出会い、今後もプロテスタントの流れの中でキリスト教の神、イエスと向き合っていく、それはまたそれでよいのではないか、とも思いました。

 

心に残ったのは、井上神父が死を覚悟した遠藤周作に病者の塗油という秘跡を授けながら、「俺はカトリックだ。天国でおふくろや兄貴に会えると信じている」と言う遠藤周作に、つられて「俺もあとから行くから。じゃ、天国で会おう」と言ってしまった、という箇所でした。

天国への希望をお互いに確かに持っていることが、うらやましかった。

プロテスタントって、ほとんど天国の話なんてしませんから。

でも、欧米のプロテスタント含めたキリスト教圏などでは、死後→天国みたいな世界観を文化として共有しているんだろうなぁ、と思うのです。

では、日本のプロテスタントはどうか、どのような心持ちで最期の時に臨めばいいのだろうかと思いながら、なかなか牧師や信仰の友にも尋ねにくい問題で。

そんなことを考えているわたしの信仰がまだまだ未熟なのかもしれません。

 

それから、遠藤周作の周辺にカトリック作家が多数いたということ。

遠藤さんは、三浦朱門、矢代静一、加賀乙彦、安岡章太郎の代父(ゴッド・ファーザー)を務めたようですし、高橋たか子も遠藤さんの影響を受けているらしい。

キリスト教文学を著すだけではなく、実生活においても周囲の人々に影響を与えたキリスト者としての遠藤周作を思って、感心したのでした。

 

ググってみると、安岡章太郎さんは2013年に、井上洋治神父は2014年に、すでにこの世を去っておられました。

ですが、この本の中で、ありありと生きているお二人に対話に耳を傾けることができたように思います。

 

疲れた心のささやかな休憩になりました。

 

我等なぜキリスト教徒となりし乎

我等なぜキリスト教徒となりし乎