うたたねモード

セミリタイア?っぽく生きてみる。

T先生のこと

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ちょうど三月のホワイトデーのことだった。

その日、わたしはICUのベッドに寝かされていた。

水色の滅菌服を着た家族が数分の面会から帰ってしまうと、わたしは独りだった。

「自分はこのまま死ぬんだろうか、ぜんぜん死にそうな気はしないけど…」と考えながら、身動きも許されず、眠れぬ夜を過ごした。

翌朝、仕切りのない3FのICUフロアには大きな窓が連なっていて、その向こうの外界に、見慣れた山々が見えた。

山にはいつしか雪が降り積もり、朝日を受けて白く輝いていた。

「雪が降ったんだ」と思った。

 

ふた昔、いやそれ以上昔のことだ。

わたしは、来る日も来る日もベッドに仰臥していた。

点滴ポールにつるされた透明や黄色の液体が入った鈴なりの点滴瓶から、ポトリ、ポトリ、としずくが落ちて、管につながれた腕の中に流れてゆく。

北側に面した日陰の病室の窓の向こうには、ただ寒々しい青空ばかりが広がっていた。

山おろしの強い風が病院の建物に容赦なく吹きつけ、ヒューヒューと不気味なうなり声をあげている。

付き添いの家人は、椅子に座って静かに雑誌を読んでいる。

わたしはいつも、声もなく涙をこぼし続けていた。

まだ、少女の名残のような年頃にすぎなかった。

 

病棟の夜が明けて空が明るくなると、窓辺のブラインドが開けられた。

温かいタオルで顔を拭いたあとに朝食が運ばれてくるが、食欲はほとんどなかった。

8時近くになると、病室の外の廊下には人の往来がふえ、病棟がにわかに活気をおびる。

遠くから、ひとりの靴音が近づいてくるのが聞こえる。

タッ、タッ、タッ、タッ、とひときわ高く力強く響き渡る靴音を、わたしはいつも心待ちにしていた。

その靴音がわたしの病室の前で立ち止まり、コンコン、とドアをノックする音とともに、その人はいつも快活な笑顔で現れた。

わたしの初めての主治医、T先生だ。

主治医といっても病棟での担当医で、まだ医学部を卒業して間もない研修医の先生だった。

だが、わたしの目には、すでに「立派なお医者さん」として映っていた。

子供心に、T先生の姿がまぶしかった。

同級生の少年に抱くのとはまったく違う類の感情を覚えていた。

それはたとえば、「あこがれ」のようなものだったのだろうか。

 

病室を訪れる先生方はたくさんいたが、T先生は特別だった。

主治医だったから、かもしれないし、カッコよく見えたから、かもしれない。 

それにもまして人懐こそうな笑顔が印象的で、時折アッハッハと豪快に笑う、そんなところもひそかに愉快に思っていた。

わたしの泣き虫は先生方にも看護師さん方にも知れ渡っていて、みな、はれものに触るように、泣かさないように、わたしの扱いに苦慮していたようだった。

それはT先生も同じだったと思うが、先生が他の人と違ったのは、ひたすら共にいてくれたことだった。

 

朝に、昼に、夕に、また時を問わず、T先生はわたしの病室を幾度となく訪れてくれた。

「おはよう」

「調子はどうかな?」

「変わりない?」

と、はっきりと通る大きな声で語りかけ、泣き虫のわたしをいつも励まし、ニッコリと微笑んで病室をあとにした。

 

とある日、医療機器の不具合で早朝から急な処置が必要になった。

処置台の上に寝かされ、青い滅菌カバーで全身を覆われて不安に包まれたわたしは、わずかなカバーの隙間からT先生の姿を探した。

するとT先生はカバー越しにすぐ気づいて処置台に近づき、「どうした?大丈夫?ここにいるからね」といって、手を握ってくれた。

またある日には、泣いているわたしを諭すように、心臓の絵を描いて一生懸命説明してくれたりもした。

 

そんな日々の繰り返しが長く続いた。

季節は移り変わり、ベッドの背を起こせるようになり、モノが食べられるようになり、ベッドに腰掛けられるようになり、大部屋に移り、家人の付き添いもなくなり、わたしは徐々に回復していった。

そんな矢先、T先生は他の研修医とともに異動であっけなく病院を去っていった。

 

それからひと月後、ようやくこぎ着けた退院前日の昼下がりに、宅配便のお兄さんが病室を訪れた。

「お届け物です」と渡されたのは、両手いっぱいにかかえるほどの、大きな赤いバラの花束だった。

添えられたカードには、「退院おめでとう」のメッセージと、T先生の名前があった。

感激で胸がいっぱいになった。

小さな田舎のことだから、先生のご実家である医院のことは耳に入っていたので、その住所にお礼の手紙を送った。

すぐにT先生からの返信が届いた。

世の中には、病にあっても前を向いて明るく過ごしている人がいる。

すべてを悟った僧侶のような人がいる。

動じることなく病に向き合っている人がいる。

そんな人に君もなってくれたら、僕はうれしい。

といったようなことが書かれていたように思う。

今も、押し入れのどこかを探せば、T先生からの手紙を見つけることができるだろう。

そんなことがあって、毎年の年賀状のやりとりが始まったのだった。

 

それから七年後、体調をくずして入院した病棟で、思いがけずT先生と再会を果たした。

大学医局から地方病院に派遣された中堅の先生たちのなかに、T先生はいた。

そして、わたしの担当医だった若手研修医H先生の指導にあたっていた。

担当医のH先生と話していても、あとからT先生が「やぁ!」と訪れると、H先生などいないかのように目を輝かせて、T先生とついつい話しこんでしまうことがあった。

あとから考えると、H先生には悪いことをしたと思う。

病状が安定したわたしは学生生活に戻り、先生はまた別の病院へと異動していった。

 

しばらくして、T先生がご実家の医院を継ぐことになったと知った。

T先生のご実家の医院は車で20分くらいのところにあったから、いつでも会える、と思っていた。

お会いしたいと思いながら、時々医院の前を通りがかることはあっても、実際にお伺いすることはなかった。

 

ある年、心臓手術の話が持ち上がり、わたしはどうしたらいいのか迷っていた。

T先生にメールを出すと親身に相談にのっていただき、方々の知り合いの先生方にわたしのようなケースの手術適応について問い合わせてくださったりした。

 

ある年は、自治体の集団検診のために公民館にでかけた家人が、検診医として来ていたT先生とばったり遭遇し、わたしの様子を尋ねてくれたこともあった。

 

直接お会いすることはなかったけれど、T先生の気配をいつも身近に感じていた。

 

一昨年の暮れ、一枚のハガキが届いた。

T先生が亡くなったことを報せる、奥さまからの喪中ハガキだった。

まだ、働き盛りの壮年期だった。

 

信じられなかった。

あの、元気なT先生が?

本当なのか?

と、ハガキの文面を何度も読み返したが、その事実は変えようがなかった。

 

T先生は、いつも元気であの医院で働いていらっしゃる。

いつでもお会いできる。

そう思っていた。

まさか、わたしより先にT先生が召されてしまうなんて、想像もしなかった。

わたしはどうして、一度も会いに行かなかったのだろうか。

T先生とのあれこれを思い出して、胸がつぶれそうだった。

 

昨年も、今年も、T先生からの年賀状は届かなかった。

T先生は、もういない。

 

 

 

三月、まだ山おろしの強い風が吹きつける。

風が建物にあたって、ヒューヒューとうなり声をあげる。

さて、出かけなければならない。

身支度をして春コートを羽織り、玄関を出て駐車場へと向かう。

強風を全身にうけて歩きながら、空を見上げる。

風の中にふっと、T先生の笑顔がよぎった。