うたたねモード

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元職場のお別れ会に参加して、もの思う

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退職して2年が経つというのに、ありがたくも元職場からお声掛けをいただき、先日、お別れ会に参加してきた。

元上司である恩師がこの春をもってご退職されるとのこと。

フォーマルな歓送迎会はまた後日に執り行われるだろうが、今回は内々のお別れ会ということで、わたしもお呼ばれとなった。

 

懐かしい顔ぶれ。

おいしい食事。

数々の思い出。

恩師への感謝。

 

三時間のときが和やかに流れた、ように思えた。

恩師からの言葉に不意を突かれて、ポロリと涙をこぼしたりもした。

 

家に帰ると、甘いような、苦いような、いろんなものがないまぜになった気持ちで胸がいっぱいになり、その晩は何ひとつ言葉にできなかった。

 

翌日、お別れ会のことを思い出すと、どうにも胸がザワザワする。

 

あそこはもう、自分の居るところではない。

 

そう気づいた。

 

* * * * *

旧交をあたためる、ような仲間との交わりなんてもともとなかった。

時が過ぎ去れば、すべてがよい思い出となる・・・なんてこともなくて、相変わらず続いている神経戦のような空気に触れて、たちまち消耗していくのがわかった。

みなの顔にうかぶ笑顔の薄皮を一枚はいだら、忖度と猜疑心と嫉妬と軽蔑とマウンティングが渦巻いているような気がして、めまいがしそうだった。

 

そんな気がしていたのは、自分だけかもしれない。

でも事実、そんな気がしてしまう自分を認めないわけにいかなかった。

 

もう取り繕うことはできない。

あそこはもう、自分の居るところではない、と思う。

 

学力格差、待遇格差、容姿格差、実力格差という冷酷な檻の中に一緒くたに押し込められて、何もかもがギシギシと軋んでいる。

そういうモノサシから離れることができない仕事にあって、みな、弱肉強食を大人の分別でくるんで涼しい顔をしていた。

 

わたしは、そんな振る舞いを続けることができなかった。

必死で取り繕おうとしたけれど、正直な心身が悲鳴を上げ、逃げた。

 

* * * * *

人の悪い面ではなく、良い面を見て。

人を受け入れて。

笑顔で。

謙虚に。

 

たとえばそんな恩師からのうるわしい人生訓を耳にしても、自分の真っ黒な心が拒絶してしまう。

それとは正反対のシーンばかりが思い出されて、虚飾を弾劾しようとする。

 

まぁまぁ、そんなに堅苦しく考えることでもないさ、だいたいみんな、いい大人なんだから、などと自分自身を軽くいなしてみる。

 

が、マジ顔が引きつってしまう。

たぶん、それくらいのトラウマがあるのだということ。

 

マジ顔を笑顔で覆い隠して、目の前の上司の話をほほえみながら傾聴していると、

 

「キミ、ずいぶん表情がよくなったね、晴れやかになって、とても元気そうになったよ、どうしたんだい?」

 

と問われた。

 

「はぁ、そうですか? えへへ」

 

と後頭部に手をやって、精一杯の笑顔でごまかしてみる。

笑顔以外、まるで言葉が出てこなかった。

 

わたしが元気になったのだとすれば、たぶん元職場を離れたから。

そして、ゆっくり休めているから。

回復したから、だ。

 

なにも、わたしばかりではない。

この元職場は、恩師に備わった本来の笑顔と優しさまで奪ってしまった。

恩師も、そのことに気づいているのではないかと思う。

 

そう思えば、恩師のご退職は喜ぶべきことである。

年齢に見合わぬ膨大な業務、過労、ストレスと戦っていたであろう恩師にも、やっと「定年後」という休息のときが訪れる。

ゆっくりと休んだら、きっとまた、わたしが知っているあの優しい恩師が帰ってくるに違いない。

本当にお疲れさまでございました、と心からの労いを贈りたい。

 

* * * * *

この会は、これを新たな始まりとして今後もつながってゆくようだ。

少なくとも、上司である恩師からそう宣言がなされた。

だが、もうわたしが顔を出すところではないのかもしれない。

 

恩師は恩師として、いつまでも尊敬すべき方であり続けることに変わりはない。

病状が不安定で何もできなかった青春時代のわたしに、そっと寄り添い、導き、見守ってくださった恩師への恩義は、これからもずっと忘れない。

だが、元職場での上司としての恩師とは、これでお別れになるのだろう。

 

人間関係を断捨離できない意気地なしのわたしは、いつものようにヘラヘラと笑顔をうかべている。

またお会いしましょう、楽しみにしています、などと、心にもない言葉が口をついて出る。

どうやらわたしも、社交辞令を吐く大人になってしまったようだ。

 

こうした食事会の類にいっさい参加することのなかったAさんや、今春に同じく退職となるのにこのお別れ会を欠席したBちゃんのことを思い出し、その媚びへつらいのない毅然とした態度を少しうらやましく感じる。

 

* * * * *

わたしは本当に変わってしまったようだ。

 

昔から人付き合いは苦手なくせに、人が恋しくてならなかった。

人の輪があると、入りたくてならなかった。

人と近しく親しくなりたいと、ずっと思っていた。

 

でも今、そうは思わなくなった自分がいる。

元職場の会をもはや必要としていない自分に気づいて、驚いている。

 

元職場を逃げるように退職し、どこにも属さず、休んで休んで、見えてきた景色があった。

 

人の考えではなく、自分の頭で考える。

人の指図ではなく、自分で決断する。

人の顔色をうかがうのではなく、自分の気持ちを大切にする。

人と同じではなく、自分は人と違ってもいいのだと知る。

人に寄りかかるのではなく、自分の足でしっかりと立つ。

自分の人生は、自分が生きるのだということ。

 

元職場にいたときには、見えなかった景色だ。

自分なんてまだまだだけれど、そんな風に生きたいと思う。

そして、実際そんな風に生きている人、独立した人に出会うと、かっこいいと思うようになった。

 

今まで、いったいどれほどの呪いにかかっていたのだろう。

自分を生きることができない、という呪いに。

規定のレールをはずれたことで、はじめて呪いがとけたようだった。

 

元職場の会に出て胸がザワザワしてしまうのは、呪いの名残に毒されてしまうからかもしれない。

 

今後、元職場とのつながりは断ち切ることになるだろう。

でも、思う。

呪いが極まったようなその場所を通らなければ、決して今の景色は見られなかった。

だからこそ、元職場にも大きな意味があったのだと。

 

お別れ会で、お別れしよう。

過ぎ去った古きものたちに。

ありがとう。

そして、さよなら。